「いき」を忘れたリベラル
コロナ禍での日本人の振舞を見ても分かる通り、近代における「全体空気拘束主義」は、強まることはあっても弱まることはない。これが『「空気」の研究』で山本七平が指摘したことだった。
しかし、それなら「空気」克服の手掛かりは「近代」ではなく、むしろ日本の「伝統」のなかに探すべきではないか。そう考えたとき、私たちの手元には一冊の心強い伝統論があることに気づく。九鬼周造による『「いき」の構造』である。

『「いき」の構造』に関しては、これまでベルクソンからの影響や、ハイデガーの解釈学からの影響などが指摘され、さらに、その内容から日本の構造主義の先駆と見做されることもあった。が、その主題は、九鬼自身も言うように、「民族に独自な『生き』かたの一つ」を明らかにし、それによって日本人の倫理のあり方を改めて自覚することにあった。
まず九鬼は、日本独自の価値概念である「いき」(生き・行き・息・意気)が、フランス語のchicやélégantやcoquetなどといかに違うかを述べた後に、それを次のように定義する。すなわち、「いき」とは、異性(他者)に対する「媚態」において、その二元的な緊張(異性と合一し切らないための距離)を維持するため、そこに武士的な「意気地」(道徳的理想主義)と、仏教的な「諦め」(宗教的非現実性)とを付けくわえた日本人独特のエートスなのだと。そして言うのである、「いき」とは「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」なのだと。
そこから九鬼は、この同化(野暮)を拒み、自/他の距離感を生き生きと維持しようとする「いき」の概念を、類似の概念(上品・渋味・さび)との関係のなかに構造的に定位し、さらに、それを日本人のしぐさ、日本人が好む縞模様、紺や藍の色、さらには音曲や建築の中に探っていくことになるだろう。それは、まさに日本人が育んできた他者との距離感、その美学=流儀の自覚としてあった。
しかし、それなら現代のインテリは、この「いき」を忘れてしまったということなのだろうか。コロナ騒動では、医療専門家の「正義」を鵜吞みにし、ロシア―ウクライナ戦争では、これまた国際政治学者の「正義」に同調するしかなかった「リベラリスト」たち。彼らには、武士は食わねど高楊枝の「意気地」も、運命を受容するだけの「諦め」もない。
おそらく長く「個人」を価値としてきたためだろう、リベラルは、二元的関係を「いき」に保つ方法を忘れたのである。
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