司馬遼太郎の小説を原作としたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が再放送されている。太田啓之氏が、司馬氏が描かなかった東郷平八郎について解説する。

「それは対馬海峡よ」

 参謀・秋山真之(ドラマ版で演じるのは本木雅弘)は、バルチック艦隊が対馬海峡を通って日本海経由でウラジオストックに向かうという最短ルートを想定。連合艦隊はそれにもとづく準備を進め、東郷や秋山らが乗り込む旗艦「三笠」は、対馬海峡に面した朝鮮半島の鎮海湾で待機していた。しかし、バルチック艦隊はいっこうに姿を見せない。

 不安に駆られた真之は海戦直前の1905年5月20日すぎ、ついに「敵はおそらく太平洋の方に迂回してしまったにちがいない。鎮海湾を出て津軽海峡の出口で待ち伏せせねばならない」と思うに至った。そして真之ら幕僚は25日、東郷の了承を得ないまま、東京の大本営に対して「26日正午まで当方面に敵影がない場合、連合艦隊は夕刻から北海(津軽海峡)方面に移動する」という内容の電報を打ってしまう。

連合艦隊を率いた東郷平八郎。NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の東郷は、渡哲也が演じた ©時事通信社

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 しかし、第二艦隊の藤井較一参謀長と第二艦隊第二戦隊の島村速雄司令官(演者は舘ひろし)だけは移動方針に疑問を抱き、自艦から小型ボートに乗り込んで「三笠」に向かい、東郷に意見具申しようとする――。(以下、作中描写の引用)

 東郷は長官室にいた。島村と藤井が入った。席をあたえられたため藤井はすわろうとしたが、島村は起立したまま、口をひらいた。かれはあらゆるいきさつよりもかんじんの結論だけを聞こうとした。

「長官は、バルチック艦隊がどの海峡を通って来るとお思いですか」

 ということであった。

 小柄な東郷はすわったまま島村の顔をふしぎそうにみている。質問の背景を考えていたのかもしれず、それともこのとびきり寡黙な軍人は、打てばひびくような応答というものを個人的習慣としてもっていなかったせいであるかもしれない。やがて口をひらき、

「それは対馬海峡よ」

 と、言いきった。東郷が、世界の戦史に不動の位置を占めるにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。